阪神・淡路大震災の記憶。私に起きた2つの奇跡

26年前の今日1月17日、当時大学生だった私は神戸市内のワンルームに下宿していて被災しました。幸いなことに大きなケガなどはありませんでしたが、一歩間違えば致命的な大ケガをしたか命を落としいたかもしれません。

 

私の住んでいたワンルームには室内に給湯器が設置されていました。

夜間の安い電気代でお湯を沸かして蓄えておくシステムで、給湯器の中には確か200リットルくらいのお湯が入っていたのですが、それが機器ごと倒れてしまったのです。

私はいつもならば部屋の隅の給湯器の延長線上の壁沿いに布団を敷いて寝ていたのですが、その日に限っていつも布団を敷いているあたりに脱ぎ散らかした服が散乱していたので布団が敷けず、部屋の真ん中で寝ていました。

もし、いつもの場所で寝ていたら間違いなく給湯器の下敷きになっていたと思います。

何日か後に大学の友達と私の二人で倒れた給湯器を動かしに部屋に入りましたが、給湯器は二人掛かりでも重くて一ミリも動かすことが出来ませんでした。この時、もし下敷きになっていたら命さえ危なかったのだと初めてわかりゾッとしました。

 

給湯器が倒れたせいで配管が壊れてしまい、水が噴き出して部屋中にあふれてしまったのでどこかに避難しなければならなくなった私は、普段なら車で二時間半くらいの距離の実家に原付バイクで戻ることにしました。

部屋の電話は使えず、見知らぬ人に借りた小銭で公衆電話から実家の無事を確認していたことと、道路パトロールの車の人をつかまえて電車が動いているか聞いてみると、『大阪の近鉄電車(南海電車だったかも)しか動いてへんよ。』と言われてしまったため、バイクで実家に帰るしかなかったのです。少し離れた場所に友達の下宿もありましたが、状況がわからずとにかく寒かったので確実に無事な実家へ行くことにしたのです。

 

その時にバイクで走り抜けた街の中の光景は今でも忘れることはありません。倒壊したビルとビルの間を走り、なん十センチも段差ができた国道の横の瓦礫だらけの歩道も走り、呆然と立ち尽くしている人々を横目に四時間近くもかけてようやく実家にたどり着きました。あちらこちらで火事の煙も上がっていました。

 

何とかバイクがあったおかげでいち早く避難が出来たのですが、実はそのバイクは少し前に故障していて、地震の前日に故障から戻ってきたばかりだったのです。そして、ガソリンもたまたま満タンにしていました。

 

地震当日にいつもの場所で寝ていたら。あるいは、バイクが修理から戻ってきていなかったら。ガソリンが満タンじゃなかったら。と考えると、何がどう幸いして自分を救ってくれるかなんて本当にわからないものだなと思いました。

 

結局私は置いていた姿見の鏡がふっとんできて、布団の上から胸に直撃はしたものの軽い打撲程度ですみました。当時はかなり痛かったですが、とても軽くすんだ方だと思います。

 

私のように運良く無事だった人も多数いたと思いますが、逆にそうでなかった人もたくさんいて、いまだに苦しみから抜け出せずにいる人がたくさんいますので決して忘れたり風化させてはいけないできごとだと思います。

ネットのニュースなどで少し取り上げられてはいましたが、だいぶ時間も経っていることなので仕方のないこととはいえ世間の扱いは小さく感じました。

 

あらためて亡くなった方やそのご遺族の方々に心からご冥福を申し上げます。